「十界」

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「学びって面白い」

こんな事を幼少期に思えば、違う世界・景色が見られたのかな~って思います。
ま~、この歳になって学がない私が、面白く勉強できるのは幸せなことだと思っております(笑)

天之御中主神様、有り難うございました。

さてさて、これも最近知ったことば「十界」
私も勉強のため、調べながら書きたいと思います。

十界とは

天台宗の教義において、人間の心の全ての境地を十種に分類したもので、六道に声聞・縁覚・菩薩・仏の四を付加したものである。十界論、十方界あるいは十法界(じっぽうかい)とも言われる。天台教学の伝統を表した『仏祖統紀』巻50に出る。

地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界に分類され、これらの総称が十界である

ウィキペディア(Wikipedia)より

何じゃこりゃ・・・

ということでこの図を

これが十界を図にした物です。

1.地獄界
他人の言う事や働きが、自分の心に合わず不平・不満・不足の念を感じて、何故、自分だけこんな不幸な境涯なのだろうと考 え、次第に瞋(いか)りの念が沸き起こり、瞋りの想念から、心の中に地獄を出現させてしまいます。

人の悪口ばかり言ってる人でしょうか。

2.餓鬼界
いつも不足を感じ求めて得られない苦しみの境界です。例えば、どんなにたくさんの物を食べても満腹感が無く満足しない心をいいます。また、周りの人達が気遣い、いろいろ世話をしてくれても感謝する気持が少しもなく、もっとして欲しい、もっと、もっとと求めて止まない心の状態が餓鬼界です。

くれくれたこらのことですかね。

3.畜生界
畜生界とは、いつも愚痴の心が支配し、知恵が足りない世界観をいいます。いいかえれば眼前の事ばかりに囚われ、思慮分別が足りない人のことです。

文句・悪口ばかり言ってる人のことですかね。

ここまでが「悪道」です。

4.修羅界
争いが絶えない世界をいいます。万事を自分の都合の良いように解釈し、都合の悪い事は、全て相手にこじつけて良い事だけ自分のものにする考え方です。都合の悪い責任を相手に押し付ける事が争いが起きるわけですが、この世界観の人は諂曲(てんごく)といって、物事を悪い方向にこじつける習性があります。このような心持の人は、悪いことは、みな相手や他人にこじつけて 良い事だけを自分のものにするというように、正しい道理を曲げて、万事を自分の都合のよいように解釈して、責任は他の者に押しつけようとすることから争いが起こるのです。

面倒な階級です・・・

5.人間界
人間は、いろいろ迷いが起こりやすいものです。この迷いを極端な考えにならない内に、途中で喰い止めることが出来る人を、人間界の世界観を持つ人といいます。心に迷いが在っても、冷静に対処し、喰い止めることができ、極端にならないですむ境涯の人が人間界といいます。日々の生活の中には、腹の立つことがあったり、怨む心も起きたりします。また、嫉む心があっても、自分がいたらなかった事として反省し、悪い行いや考えを喰い止めて生活して行けることが大事な事です。そういう努力を惜しまない境遇の人が人間界の住人です。

せめてここにいたいですね~

6.天界
楽しみや嬉しい事の多い世界観をいいます。人として、恵まれた生活環境に生を受けることが出来たり、人生に於いても、非常にうれしい事があり、喜び事の多い環境の人がいます。

社畜を脱却して、最近こんなことばかり起こります。

ここまでが「天道」です。

7.声聞界
仏さまの教えを聞いて、その通りに教えを守って生活をして行こうと考える境界であります。仏様は、むさぼるとか、怒るとか、嫉むとか、憎むことは、みな執着の心が作り出し、苦しむ原因となるものであると説いています。

その通りですね。「むさぼるとか、怒るとか、嫉むとか、憎むこと」って苦しい事ばかりです。

8.縁覚界
縁に依って悟るという意味です。この境涯の人は、仏様の教えを聞くだけでなく、自分の毎日の生活経験を思い合わせ、自然界の摂理を通し、人生の無常を悟り、意義ある生活を考え、世間の悪い生活に執着しないように、精進、努力する人が縁覚界の人です。

ここまでが「二乗道」です。

かなり高度になりつつありますね。

9.菩薩界
人は、自分一人が悟りを得たなら、それで満足だと考える人が多いものですが、それで本当に満足するものでしょうか。自分だけ(渇愛)の思いでは、決して真の満足は得られないものです。例えば、家族にあっては、自分に良いことがあっても、誰かが事故や病気になると、幸せだと思っていた気持ちもどこかにとんでいってしまいます。

世の中の人々の中には、迷い苦しんでいる人が数え切れないほど沢山います。自分が、ある程度の執着を離れた心持ちになって、冷静に社会を見渡しますと、苦しみや悩みをかかえて生活する人。瞋りが充満して常に争いを起こす人。嫉妬や嫉みなど心に不安を感じている人。また、悪心から人を陥れようと計らいをする人等々。様々な苦しみが満ち溢れています。このような人々を拝見しますと、いかにも気の毒な状態にある人が多いことに気がつきます。

誰しも、まともな心を持った人は、このような三悪道や四悪趣といった、悲しい生活から脱出し、少しでも幸せになって欲しいと願うものです。このような心を慈悲心といいます。この慈悲心から、少しでも、人々を楽しい生活の送れるようにしてあげたいという想いが出来てきます。このような決心や覚悟で、自他共に救われていこうと行動できることが大事です。ただ、このように苦しむ人々を救うには、それなりに助けたり救うだけの力がなければ、人を助けたり救ったりすることはなかなか出来きるものではありません。

仏様は、このような人々に六波羅蜜(ろくはらみつ)の法門を説き、自らが修行を怠らず精進することを勧めました。衆生救済の手立てとして、智慧をみがき、徳分を養い、修行を怠りなく続けて慈悲の実践をする人を、仏教では菩薩と呼んでいるのです。

なんとなく「八紘一宇」に近い考え方ですね。

10.仏界
菩薩の修行を積み、すっかり迷いがなくなった世界観をいいます。智慧や慈悲が広大なものとなり、洪水のように満ちあふれて止む事なく、一切の人々のために心をつくして、慈悲心や知恵によって救済や守りの働きが完全無欠の状態になった時が仏の境地だといわれています。

目指すはここですが、なかなか難しい・・・

ここまでが「仏菩薩道」です。

これはよく吉野敏明氏が例えで仰ります。
自分はどの位置にいるのか、ひとつでも上がれるように精進したいものです。

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